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・蔵の紹介
江戸時代のころには、埼玉県は米処として広く知られ、約700蔵もの造り酒屋があり、東の灘と言う意味の東灘(あずまなだ)といわれるほどの酒処でした。16世紀から17世紀にかけて人口にあまり変化がない中で田畑面積が二倍近くになり、それまで食べることにやっとだった食生活にゆとりができ、酒造りも盛んになりました。そうしたなか、寛永二年(1625年)に秩父で酒造りをはじめたのが、東亜酒造の原点です。そして昭和16年に赤城山系の伏流水に恵まれた、穀倉地帯の羽生市に本社を移し現在に至っております。

・お酒は風土による個性がある
世界的に見ると、ワインにしてもシングルモルトウイスキーにしても、地酒は風土により特徴のあるものが生まれ、地域ごとの違いを楽しむことができるものです。
しかし、戦後の日本酒文化をみると、日本全国で同じ味を目指し、地域差がなくなってしまったのも事実です。
冬の間蔵人を他の地域から呼び、米も有名産地から仕入れる、ビジネスとしてはとてもうまいやり方でしょう。
しかし、水も気候も違うから、出稼ぎの蔵人さんたちも勝手が違い戸惑いを見せる。そうしてつくった酒がどうして、新潟や灘に勝てるのでしょう。
そう自問自答してゆくうちに、地元の米を使い地元の人により、埼玉県人が誇りにできる酒を造りたいと思うようになりました。

晴菊(ハレギク)の名称の由来
晴菊の由来は困民党が中心となった近代史上最大の民衆蜂起・秩父事件にさかのぼります。

明治17年(
1884年)11月1日の夕刻、秩父椋神社に農民3000人が集結。負債の延納、雑税の減少等を求めて蜂起した。
困民軍は群馬や長野の各地に転戦したが、組織された政府軍の鎮圧に奔走させられ、蜂起から10日あまりで壊滅。
困民党や農民はバラバラになった。
この時、困民党に食料などを提供し、陰で支援したといわれるのが肥土酒造本家(秩父市吉田町)17代目当主、肥土晴三郎だった。明治政府も西南戦争に準じる戦争として、有事体制で臨んだ戦闘への支援はどれほどの苦労があったでしょうか。

「晴菊」は、晴三郎の死後、地元への貢献、功績を称え、名の頭文字と故人が好んでいた大輪の菊に因んで付けられました。
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